インドな時間



 
花谷 めぐむ

第一話

 それは突然やってきた。

突然、エスニック調の服やアクセサリーを身にまとい、カレーに蘊蓄を語り、けばけばしい色のシールをぺたぺたと貼る。「インド」と書いてあれば何にでも目が吸い寄せられるが、「インドアスポーツ」にまで目が吸い寄せられるようじゃ、こりゃまた重症。

インドになんて何の興味もなく、一生行くことはないと思っていたのに、一体どうしたことだろう。

「インドのどこに惹かれるの?」とよく聞かれる。

「何か、人間の原点に戻れるような気がする」と答える。

以前どこかで、「インド人は『生きたい、生きたい』と願っている。日本人は『死にたくない、死にたくない』と願っている」という言葉を耳にした。確かにそう思う。生きていくのが大変な分、生きることに一生懸命に見える。見えるだけなのかもしれない。だが、日本に帰ってくれば、とりあえず住む家があり、食べるものがあり、着る物がある。インドには住む家もなく、食べるものに事欠き、着る物にも事欠く人たちがいっぱいいる。当たり前すぎて何も感じなくなった心、住むところがあるだけでありがたいことだと感謝することを忘れてしまった心、住むところがあるのに小さいだの不便だのと際限なく増殖する欲望、インドに行くと、いろいろな意味で当たり前が当たり前でなくなる。自分の立っている地平が揺り動かされる。

あまりに突拍子もないことがおきて、常識が覆ってしまうこともある。びっくりして、目から鱗がぼろぼろと落ちる。

そんなインドのことを、少しずつ書いていきたいと思う。


インドな時間(第二話)

 さて、インドと聞いて何を思い出すだろうか。

最近は、中国と並ぶ新興国として、社会や経済でもてはやされることも多い。インドの株式はうなぎ登り、今や世界中が注目している。あるいは、マハトマ・ガンジーを思い出す人もいるだろうし、サイババを思い出す人、あるいは真っ先にお釈迦さんの故郷として思い出す人もあるだろう。

最近では、中島岳志さんの本で有名になった新宿中村屋のカレーの元祖、ラース・ビハーリ・ボースの名前を上げる人がいるかもしれない。

インドと言えば、やっぱりカレー!カレーと言えばインド…。

ところが、初めてインドに行った時、レストランで「カレー」を注文したら全然通じなかった。ちゃんと、curryって言ったのに、なんで?

その答えは、インドの料理自体がそもそもカレーであり、カレーという特定のメニューがないからだ。日本で言えば、レストランに入っていきなり「味噌汁」くださいというようなもの。一口に味噌汁と言っても、豆腐の味噌汁もあればタマネギの味噌汁もある。赤だしもあれば、白味噌仕立て、沢山の種類がある。

だからインドでは、具材で注文する。パニール(乳製品で作った豆腐みたいなもの)、チャナ・ダール(チャナ豆)、アールー(じゃがいも)…。豆と一口に言っても、いろんな豆があるから、これまた大変…。

 食を知ることは、その国の文化を知ること。インドで食べる「カレー」は、日本のものとはひと味もふた味も違いますぞ…  

インドな時間(第三話)

 現在、インドには10億の人々が住んでおり、世界で2番目の人口を誇る。その国土は、日本の約10倍。広大な国土である。

 よく人に聞かれるのが、「インドって何語しゃべるの?インド語?」という質問である。「インド語というのは無いよ。ヒンディー語が公用語だけど、英語も通じるよ。」と答える。そして実は、インドには公用語が18もある。その内のいくつかがお札にも印刷されており、お札の左端に各言語で、○ルピーと書かれている。

 インドでは、州ごとに話されている言葉が違う。例えば、いつも行くムンバイ(マハラシュートラ州)はマラティー語、アーメダバードはグジャラート語、デリーはヒンディー語、バンガロールはカンナダ語、チェンナイ(マドラス)はタミル語という風である。日本で一時流行った「踊るマハラジャ」という映画は、タミル語(圏)の映画なので、デリー出身のインド人に聞いても知らないことが多い。

 今回バンガロールに寄るので、バンガロール出身のインド人に簡単なカンナダ語を教えてもらっていた。びっくりした。全然違う!そう、言語体系も全く違う言葉が話されているのだ。言葉が違うだけではない、文字も全く違う。ウルドゥー語はアラビア語に似た文字、タミル語はタイ語に似た丸っこい文字、そして「物干し竿に洗濯物がぶらさがっているような形」のヒンディー語。バンガロール出身のインド人曰く、「僕たちはヒンディー語しゃべれるけど、北の人(デリーあたりの人)は何も知らないんだよね」。

インドという国、1つの言語でくくれるほど単純な国ではなさそうである。




インドな時間(第4話)

 今回、インドで光の音符の活動に合流する前、実は私は2週間以上も前からインドに滞在していた。他の団体のスタディーツアーに10日間参加し、その後光の音符の一行と合流するまで、わずかな休暇を過ごすためである。

 前半のスタディーツアーでは、南インドのド田舎の合宿所で、プチサバイバル生活を送ったのだが、インドのムンバイとは全く違う一面を学ぶことができた。普段活動しているモンスーン教室は、ムンバイという大都会のスラムにある。スラムで活動はしていても、滞在先は曲がりなりにもホテルである。今回は、農村部、それも一帯には電気も電話も通わず、井戸水を利用しているような田舎の合宿所に滞在し、それこそディープで濃いインドの深淵を覗いたという感じだった。

 なぜ私が、他の団体のスタディーツアーに参加しようと思ったのか?それは、スラムに暮らす人々の背景を知りたかったからだ。インドは国の80%が農村部、人口のほとんどが農村に暮らしており、そこで暮らせなくなった人々がスラムに職を求めてやってくる。その中には、ダリットといういわゆる不可蝕賤民と呼ばれる人たちも多い。

今回関わりをもったのは、カーストの最下層の枠外にあって苦しい生活を余儀なくされてきたこのダリット(不可蝕賤民)と呼ばれる人々だった。それもただ表面的に視察するのではなく、その一人一人から話を聞くことができ、またダリットの村を訪問し、自助グループの働きで職を勝ち取った市場を見ることができた。カーストの枠外にあるということは、「人間扱いされない」ということ。家畜同様と見なされ、そのような扱いを受け、人に触ることも触られることも、またその人たちが触れたもの全てが忌み嫌われるような状況下に置かれている。彼女たちの話を聞いても、あまりに私の普段の生活からかけ離れ過ぎており、どんなに想像力を働かせても、心からその苦悩を理解することはできない。だが、彼女たちにとっては、自分たちの生活について関心をもって応援してくれる人がいる、その存在だけで勇気づけられるようなのだ。ほんとうに嬉しそうに握手を求めてくる。一生分の握手をしたかもしれない。何度も何度も握手を求めてくる。人に触れられることを忌避されている人々にとって、人と触れ合うことがどんなに大きな意味を持つのか、改めて感じさせられた。

電気も通わない田舎だが、周りには豊かな自然があり、一見すると食べるのに困らないのではないかと思ってしまった。ところが現実はそうではない。ダリットの人たちは通常「日雇い肉体労働」の職にしかつけない。一日働いても日本円で10円ほど。とても食べてはいけない。土地を持つことも許されていない。ただ耕してお金をもらうだけ。お金が足りないので地主などから借金をする(これは農民も同じ)。借金が返せなくなり、夜逃げ同然で都会に出て、スラムに住み着く。都会にいけば、何かしら現金収入があるからだ。

 インドは経済成長のまっただ中、現金収入を求めてスラムに流れて来る人々はこれからも増え続けるに違いない。都市の問題は農村の問題でもある。いくらインドの経済成長が凄まじいからといっても、その恩恵を受けている人はまだまだほんの一部分だ。農村の問題が解決され、国民全体が底上げされて豊かになるまで、「持たざる貧しいスラムの人々」と「持てる金持ち」との格差はどんどん広がって行くに違いない。モンスーン教室の活動も、これからが正念場である。

今回、都会と農村、その両方に接する機会が与えられて、ほんとうに感謝している。ディープで濃いインドの田舎体験。ここではとても一言では書ききれない。ものすごく面白いことも、考えさせられることもたくさんあった。興味のある方は、是非、ブログを覗いてください(感想など下されば幸いです)。

ブログのアドレス http://megumu.tea-nifty.com/

インドな時間(5)

 今回のインド行き、私は同行できなかったが、西村ゆりさんと京都仏教会の方々が現地で大変有意義な時間を過ごして来られたようで、ほっとしている。

 実は、行く前の舞台裏は少々大変だった。というのも、インドと言えばお釈迦様の故郷と日本人には馴染み深いのだが、実際のインドでは仏教はマイナーであり、そのギャップが激しいからである。あまり宗教的色彩を前面に出すと、摩擦も起きるし警戒もされる。特に、最近の宗教テロの横行により、宗教関係は十把一絡げでチェック対象となる(実際、今回の渡印では西浦医師の墓参の許可を得るために、仏教会全員のパスポート番号などを申請しなければならなかった)

 外務省が発表しているインドの宗教をパーセーンテージで見れば(2001)、ヒンドゥー教徒80.5%、イスラム教徒13.4%、キリスト教徒2.3%、シク教徒1.9%、 仏教徒0.8%、ジャイナ教徒0.4%であり、仏教徒はキリスト教徒よりも少ない。

 インドでは、ヒンドゥー教が盛んであり、どこの土地に行ってもヒンドゥー寺院がある。ヒンドゥー教、これは日本の神道と同じく多神教であり、つまりはいろいろな神さまがいらっしゃる。それぞれの神さまは人格を持っていて、それにまつわる面白い話がいろいろあり、これまたちょうど日本の神話やらギリシャ神話とよく似ている。

天地を作ったのはブラフマー(日本名:梵天)という神さまで、その奥さまはサラスバティー(弁財天)。サラスバティーは美と音楽の神さまで、その姿はとても美しく、その美しい奥さまの顔をいつもどこからでも見ていたいという願望から、ブラフマーの顔は前後左右の四方についているのだそうだ…。日本でおなじみの神さま、シヴァも人気がある。シヴァの奥さまはパルヴァティーという美しい奥さまなのだが、なんとこれが時々恐ろしい姿に変身して、そこらへんの男どもを串刺しにしたりするのだ(ドゥルガー)。シヴァの奥さまの化身にはもっと恐ろしいのがいて(カーリー)、これは首から生首を沢山ぶらさげて、殺戮を繰り返す。奥さまの乱行に手を焼いたシヴァが、目の前に身を投げ出したところ、夫の身体を踏みつけたカーリーが、「あら、大変、大事なダンナさまを踏んづけちゃった」と正気に戻り、元の美しい奥さまに戻ったらしい…。

あと、笛の音色で女性を次から次へと虜にした愛の神さまクリシュナは人気絶大、ハヌマーンという猿の顔をした神さまは、どうやら中国で孫悟空になったらしい。シヴァの息子で不幸にも頭が象の頭にすげ替えられたガネーシャ(歓喜天・聖天)は富と商売の神さま、手から黄金をちゃらちゃらと出している美と富の神さまラクシュミ(吉祥天)も人気絶大である。お店に行けば、必ずと言っていいほどガネーシャやらラクシュミが飾ってあるのは、ちょうど日本のお店に招き猫や福笹が飾ってあるのと同じ感じなのだろう。

インドの一大行事にディワリという行事がある。毎年10月か11月(年によって変わる)にあって、ろうそくで灯をともす明かりのフェスティバルでもある。このとき、インドの家では大掃除をして、いらないものを人にあげるのだそうだ。家の中にものを沢山ため込んでいたら、富の神さまラクシュミは素通りしてやって来ない。いらないもの使わないものは人にあげて、家の中をすっきりとしておけば、ラクシュミがまた富を連れて来てくれるのだそうだ。

これを書いているとき、ちょうど日本も年末。大掃除をしてすっきり心新たに新年を迎えるのと、ちょっと似ているのかもしれない。

このようにインドのヒンドゥー教の神さまはユニーク。仏陀は先ほどのクリシュナの第9化身(9番目の生まれ変わり)だそうで、仏陀まで取り込んでしまう恐るべきなんでもありの宗教である。

多神教というのは日本人には馴染みやすい。お稲荷さんに行って商売繁盛を祈り、天満宮に行って学業成就を願うのと似ているからである。

この多神教となかなか相容れないのが一神教であるキリスト教やイスラム教。特にイスラム教は、インドでは第二の宗教で人口も多い。キリスト教もダリットの人たちを中心に広がっていて、時には過激な考えをする人いる。天地万物を創ったのは一人の神だというのは、他の神々を否定することにも繋がりかねないので、非常に微妙で繊細な問題をはらむ。もちろんその逆もしかりで、ヒンドゥーナショナリズムなどの原理主義は、一神教のイスラム教をなかなか受け入れてはくれない。

10年以上前の大暴動のようなことが起きる。宗教に寛容と言われている日本人、それは裏返せば宗教に「鈍感」であるということでもある。インドをはじめとする他国に行くとき、一番気をつけないといけないのは、このような点ではないだろうか。

インドな時間(6)

 インドの民族衣装といえば、紛れもなく「サリー」である。民族衣装というと、何か特別な儀式の時に着るような印象があるが、サリーは名実ともに日常着、生活に根付いた衣装である。初めてインドに行った時、多くの女性がサリーを着ていてびっくりした覚えがある。サリーを着ない人も、パンジャビスーツ(チュリダーとも言う)というパンツスーツタイプの民族衣装を着ており、日本で着物を見かけるのは、成人式や初詣など、特別な日がほとんどなので、余計にびっくりした。

 前回にインドに行ったとき、ようやく念願叶ってサリーを作って着てみた。サリーは、長い一枚の布なのだが、その下は裸という訳にいかず、一応、短いTシャツ風の下着とペチコートが必要である。このサリー、着てみるととても涼しい。特にお腹周りがスースーして、とても涼しい。サリーのほとんどの部分はスカートのように腰の周りに巻き、最後の布を上半身にかけるだけなので、実はお腹、特に脇腹が丸見えになるのだ…。これが、日本人にはとても恥ずかしい。お腹を人前にさらすことなど、ビキニでも着ない限りないことだし(つまり一生無いこと)、いくらなんでもこんなお腹を人前にさらすのは…と、思ってしまうのだ。

 ところがインド人はそんなことは平気らしく、立派な脇腹からスリムな脇腹まで、惜しげもなく人前にさらしている。一方、人前にさらしてはならないのが、足。足首まではOKだが、それ以上を見せるのはかなりの抵抗があるらしい。同様に、腕は二の腕までで肩が見えるのはかなりタブーらしい。胸元が大きく開くなど、もってのほかである。

 日本人が着物を着ていても、裾がはだけているとドキッとするし、胸元の合わせが崩れていてもドキッとする。普段、短いスカートをはいて、胸元のあいた服を着ている人でも、着物になったとたん気になるのだから、服にまつわるタブー(?)というのは、不思議なものである。

インドも、最近は西洋のファッションが入って来ているらしい。日本で着物が急速に消えて行ったように、インドのサリーも風前の灯火かもしれない(個人的には、あんなに涼しくて楽ちんな服は、多分なくなりはしないと思うけど)。

インドな時間(7)

2007年は、日印交流年だそうです。各地でいろいろなイベントが開かれることでしょう。その年を記念して、先週、郵便局から「2007年 日印交流年記念切手」が発売されました。図柄は10種、タージ・マハールやベンガルトラ、クジャク、サンチーの仏教遺跡、インド細密画や、カタカリやバーラット・ナディアムなどの古典舞踊がモチーフになっています。この10種の図柄が組み合わされて、1シート(800円)です。

 と、思わず宣伝してしまいましたが、私は、郵便局の回し者ではありません…。

 さて、筆者は5年以上前からフラメンコを習っています。先日も発表会があって、ばたばたとしていました。フラメンコと言えばスペイン、ジプシー(ジプシーというと侮蔑語になるということで、最近は、ロマの人々などと呼ばれています)の踊りですが、実は、インドと深い関係があることが分かって来ました。

 映画のお好きな方なら、ぜひこのドキュメンタリー映画を見ていただきたいのですが、「ラッチョ・ドローム」(トニー・ガトリフ監督)というロードムービーがあります。ジプシーの起源と歴史と流浪の旅路を、音楽と踊りだけで映したものです。スペインのロマ(ジプシー)の人たちは、真っ黒な髪に真っ黒な目を持っています。その人たちの起源は、実はインド北部だと言われています。ジプシーは、地元民との交流(結婚などの交雑)が禁じられたため、拡散することなくその血筋と文化が保存されていったようです(言葉にも共通するものがあるようです)

ロマ族の起源となる人々はインド北部で踊りを生業としながら、移動生活を送っていました。そして数千年をかけて、スペインの端までたどり着いたのです。インドの北部の踊り、足に鈴を付けてタンタンとフラメンコのようなステップを踏みますが、とても素朴な踊りです。途中、時代を経るに従い、楽器が加わり、踊りの形態や移動手段までも変わって行きます。フィドル(バイオリン)を取り入れた人たち、ギターを取り入れた人たち、一部はヨーロッパを北に抜けて、いわゆるボヘミアン(最終的にはロシアまで行き着きます)という人たちになりました。ロシアでは、地面が雪に覆われる冬、樹上に家を造ってそこに寝泊まりしていたそうです。移動手段も、最初の徒歩から馬車、バス、と変わって行きます。町の中には入れてもらえないので、町外れの川縁などに停留したそうです。

フラメンコの歌には、もの悲しいものが沢山あります。定住を許されず、差別されてきた歴史が刻まれる歌があります。「人はカラスを嫌う、なぜ黒いカラスを嫌う。人はなぜ私たちを嫌う。私たちの髪は黒く、目も黒いから。…」インドの人々の漆黒の黒髪、黒い大きな目を見るとき、そこからはるばると旅をしてたどり着いたスペインのロマ族の人たちを思います。

一見何の関係のないように見える、2つのもの。人間の歴史の重さと深さを思います。

インドな時間(8)

 京都は祇園祭が終わりました。祇園祭が終わると梅雨があけると言われていますが、もう一息、まだまだはっきりしない天気が続いています。

 梅雨、英語ではいろいろな表現があるでしょうが、私はよくrainy season (レイニー・シーズン)という言葉を使います。これは、つまりは雨期のこと、本来は一ヶ月ぐらいで終わるようなものではなく、何ヶ月も続く雨の季節のことです。

 インドは基本的に、雨期と乾期に分かれたモンスーン気候です。インドは広いので、南の方は亜熱帯に近く、北のエベレストに近い方は高原の気候、北西の砂漠に近い地域は昼夜の寒暖の差が激しい砂漠の気候など、地域によって若干の差があります。

 私たちのモンスーン教室のあるムンバイは、インドの西部、ここはなんとインドの中で最も降雨量の多いところです。ムンバイの雨期は、ほぼ9月の中頃に終わります。9月の上旬はまだモンスーンの終わりかけ、9月下旬になればほとんど雨期は終わっています。数年前、モンスーンが長引いた頃にムンバイにいましたが、毎日毎日、ようこれだけ雨が降るなと思うほど雨が降り、飛行機はだだ遅れ、道路は冠水していて、少なからず身の危険を感じました(本当はどうってことないのでしょうが)。モンスーンの終わり、ムンバイにはガナパティ祭りがやってきます。これは、ガネーシャという神さまの祭りで、大きなガネーシャ神の張り子を海に流すお祭りです。町中が賑やか(を通り越して騒々しい)で、活気にあふれています。

 雨期があけると、こんどは乾期。こんどは一滴も雨が降りません。

 空気が乾燥しているので、それほど暑さは感じず、意外に過ごしやすいです。マンゴのとれるのは、この乾期です。乾期はほぼ3月に終わります。2月にインドに行ったとき、乾期の終わりかけで町中が乾燥しきってほこりっぽく、街路樹の葉っぱにも茶色い土埃が着いて緑色のはっぱというより茶色い葉っぱだらけでした。Tシャツは一日でずず黒く、鼻の中は真っ黒(^^; なる季節です。ホテルに帰って、手を洗うと石けんが茶色くなるのは、ある意味で感動(?)です。

 乾期があけてから雨期までの間、ちょうど日本で言う4月と5月がインドで最も暑い時期です。最高気温が40度だ50度だとニュースになるのは、この時期です。ですから、日本のゴールデンウィークにインドに行くのは、かなりの覚悟が必要です。インド人も暑いので、モチベーションは低く、ごろごろと横になって過ごすことが多いようです。

 そして6月、待ちに待った雨期がやってきます。乾ききった乾期、酷暑の時期を経て、一滴の雨が降ると、町中が大喜びします。インド人にとって、モンスーンの季節は格別の思いがあるようです。そして(日本のお米も同じですが)、モンスーンの雨の量によって、その年の作物の出来が決まってくるのです。映画「モンスーン・ウェディング」には、そんなインド人の日常が描かれています。

 日本に四季があって日本人が四季折々を楽しむように、インドの人たちもまたモンスーン気候とともに生きています。

インドな時間(9)

 日本では、安倍首相が突然辞任し、新しく福田総理大臣が誕生しました。日本では、議院内閣制をとっており、衆議院・参議院の第一党の党首が首相になります。今回のように、参議院の第一党は民主党、衆議院の第一党が自民党の場合、衆議院が優先されるので、福田首相の誕生となったわけです。

一方、アメリカはというと、もちろんご存じの通りの大統領制。国民から直接選挙で選ばれる大統領で、現在はブッシュ(共和党)ですが、先の選挙で上院・下院ともに、議会の方では民主党が過半数をとっており、大統領は孤立無援…政権末期の死に体状態です。

さて、インドの政治はどうなっているのでしょうか。実はインドには、首相と大統領の両方がいるのです。実質的な権限があるのは、首相の方なので、その場合は、大統領制とは呼ばないようです。現在は、シン首相、この人がインドの実質的な国家元首です。頭にターバンを巻いたシーク教徒で、写真をご覧になった人もいらっしゃるでしょう。

一方、大統領ですが、実はインドでは、この7月に初めての女性大統領が誕生しました。パティル大統領は、ムンバイ出身、そうモンスーン教室のあるマハラシュートラ州の出身です。大統領といっても、様々な任命などを行う象徴的、形式的な存在で、実権はありませんが、国民からは尊敬される存在となっています。

インドの選挙、選挙のたびにいろいろな問題が浮き彫りになっています。というのも、人口が多く、選挙の勝敗を握るのが、低いカーストの人たちであり、あの手この手で(たとえば、支持者の人たちの一部にテレビを配るとか(^^;)歓心を買いやすいからです。文字が読めない人のために、投票用紙には、象の絵や魚の絵が描かれており、それに○をつけます。

以前南インドで、派手な音楽を流した騒々しい車に出会い、そこから降りてきたマリーゴールドの花輪をかけた恰幅のいい男性とその取り巻きに囲まれました。聞けば、地元の選挙のために運動中の候補者。外国人の私たちに手を振って、愛想をふるまってなんの得があるのだろうと思いましたが、そこはご愛敬なんでしょう。その雰囲気は、日本のいわゆる「どぶ板選挙」とまるで一緒だと、妙に納得しました。ただし、インドには日本のようなウグイス嬢はおりません。どこまで行っても、おっちゃんのだみ声です。